中森明菜さんは家族との確執に苦しんできました。現在も絶縁中で、刻み込まれた深い溝はいまだ埋まりません。体調不良で辛い時期、家族とどのように過ごしてきたのか等、中森明菜さんの家族との泥沼事情をピックアップしました。
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中森明菜は現在も家族と確執を…金銭トラブルからの絶縁続く【極貧】家族の為に歌手を目指した少女の末路
中森明菜さんのご実家・ご家族は、とても裕福とはいえない家でした。極貧に苦しめられた子供時代、お金を稼ぐにはどうすればいいのか、必死に考えていた過去。この時期はまだ、家族との関係は良好でした。
中森明菜さんは、6人兄弟(男2女4)の5番目。三女です。1965年7月13日に東京都大田区で生まれて、清瀬市に引っ越します。
当時、中森明菜さんは家がひどく貧乏で、そのためにも保母さんという夢を諦めて、お金を稼ぐために頑張ろうとしたことを自著の中で述べています。
この時代で6人家族は、それほど驚く人数ではありません。ただ一般家庭で6人も子供がいれば当然、貧乏になるのは仕方がないです。大田区では家賃が高かったので、清瀬市に移ったのかもしれませんね。この時代の子供ならば夢をあきらめる方は沢山いたと思います。デビュー当時はふっくらしていてキレイではなく、可愛いという感じです。
ただこういう話を聞いていると正直、この時代の親世代ってお金稼げてないくせに、何でこんなにたくさん子供産むんだろうって思っちゃいます。親の貧乏のせいで子供が苦しむことなんて、目に見えてるのに。何とも思わないんですかね。
中森明菜さんは、六歳のころに、「自分が歌うことで、みんなが喜んでくれるのなら、私は何でもやろう」と心に決めたことが書かれていました。でも、「ホントは私、保母さんになりたかったんだもの……」と心中も語られていました。「ただ……お金をかせげるのはタレントしかないって、思ってた」そうです。
この時代に、お金を稼ぐならタレントしかないと考えた事は凄いですよね。今と違い、アイドルの人数は多くありませんでした。
スター誕生!で、11社からスカウトをされた中森明菜さんはこれをもって歌手デビューを果たしました。歌手・タレントは母親の夢でもありましたから、家族はさぞかし喜んだはずです。しかし、このとき中森明菜さんは家族に対し、このような発言をしています。
「愛情をあまり受けずに育ちましたから。だからそのぶんね、よく孤児院なんかで育ったコが、絶対自分は温かい家庭をつくるんだって言ったりする、それと同じでね、ひとには絶対、イヤな悲しい思いをさせたくないの。
それなのに、なかなか感情のコントロールができなくて……こんな自分に疲れちゃうんですよ」
引用:『中森明菜[心の履歴書]不器用だからいつもひとりぼっち』のあらすじと読書感想文
この内容はすごく切ないお話しですが、親から愛情受けずに育ったと感じる方は、案外多く存在します。うつ病患者が増えていることも関係ありそうですね。一番身近にいる家族の存在が助けにならないのは、悲しい事です。
しかし、行き違いも多くあります。時が経って大人になれば、本当は愛情をたくさん受けていたことに気がつく…そういうこともあります。
ただ、明菜さんの場合はあまりにも近寄ってきた大人がクズすぎて不幸が重なってしまったという状況があるのです。お気の毒…としか言いようがありません。
中森明菜さんが歌手を志したきっかけとも言える”家族”の存在。中森明菜さんの、レコード大賞受賞に駆けつけた母の千恵子さん
レコード大賞に駆けつけてくれたお母さん、お母さんの夢を請け負った中森明菜さん、とても感動的な場面だと思います。
情報を週刊誌に売った中森明菜の家族たち…戸籍を抜いて絶縁
しかし、現在この家族と絶縁状態だと言われており、その始まりは1995年の母親千恵子さんの死からと言われています。
「初めてお話しすることですが……。お母ちゃんが亡くなる少し前のことでした。明菜の所属事務所の人間が2人来て、『明菜が中森家の戸籍を抜けたいと言っている』と突然言ってきたんです。
もちろん私は『そんなことはできない』って突っぱねました。だって、明菜本人から一度もそんなことは聞いていなかったですからね。
その後、明菜本人か、事務所の人間か、どちらが市役所に行ったのかはわかりませんが、あの子は勝手に家族の戸籍から、自分だけ籍を抜いてしまったんです……」
引用:中森明菜「実家の戸籍を抜いていた」82歳父が涙の初告白
戸籍を抜かれるという事は、かなりの確執があったことが分かります。しかも中森明菜さんはそれを直接父親に話すことなく事務所の人間に託すとは、会いたくもないという状況だったのでしょうか。父親の立場として拒否することは当たり前です。
しかしこの父親の告白だけを見ると、話し合いも無く戸籍を抜いた事は分かります。相当嫌いでないとできない行為ですよね。はたしてどのような理由があったのでしょうか。
「それは、明菜が私たち家族に“自分のお金を勝手に使われてしまった”と、固く信じ込んでいるからなんですよ。明菜は、当時の事務所のスタッフから『清瀬(の家族)にいっぱいお金が行っていて、大変なんだよ』と言われたそうです」
当時、家族で経営していたスナックや中華料理店に、明菜のお金がつぎ込まれていると、誤解しているのだと明男さんは語る。
引用:中森明菜 父が告白「誤解が生んだ“家族との断絶”18年」
やはりお金です。お金がらみ以外で親子の絆が無くなるとしたら不倫関係です。しかし一方的に戸籍を抜くという行為が行われたのならば、お金しかないでしょうね。ここでは父親は否定していますが、確証がなければここまでの行為はしないとも思います。
過去に報道された金銭トラブルでは「事務所の人から、中森明菜さんの実家にお金を取られて大変だと言われた」という記事が載っていました。
中森明菜さんの家族としては「そんなお金頂いていない」ということだそうです。中森明菜さんはこの話を信じていた
母親の死は1995年ですから、この時期からずっと連絡が取れていないということです。金屏風事件と言われる近藤真彦さんとの破局会見、事務所独立騒動での裏切り、お母さんと慕っていたK女に暴露本を出されて逃げられる等…かなりえげつないことが立て続けに起こってきたことが背景にあった時期です。
そんな人間不信のさ中に、家族が自分の金を使い込んでいる…と聞いたらどのように感じるかは明らかです。その時は精神的にも追い詰められ、何が正しいのか判断ができない状況だったとも考えられます。
そんな時に、もしお金をしらない所で使われていたというのであれば、中森明菜さんにとって大切な家族であっても、過敏に反応してしまうということも十分考えられます。
そして、この”家族との確執・絶縁状態”の話題についても、週刊誌への親族からの電話が始まりでしたから、家族がお金に困っていたからという面も否定できません。
「実は、明菜の母親の葬儀以来、明菜と私たち家族は今日までずっと音信不通で、一度も会えていないんです」
10月中旬、本誌にかかってきた1本の電話ーー。中森明菜(48)の“親族”と名乗るこの女性は、明菜が家族と“絶縁状態”にあるという衝撃の事実を明かした。
確かに人間不信になっている時代ですから、すべてを疑ってしまうのは仕方がない事だと思います。しかも、これって「親族の方から週刊誌に対して絶縁中だという情報を売ってきた」という事ですよね。とても寂しい事だと思いますし、やはりその程度の関係性だったのでしょうか。
お金のために雑誌に情報提供したという事ですから。48歳となっているので4年前ですよね。という事はちょうど紅白で復帰する時です。雑誌もちょうどよい時期の内容ですから、高くお金をだしたかもしれませんよね。憶測となってしまいますが…。
また母親の千恵子さんが中森家の墓に入らずに、実家の墓に入ったことも関係しているのかもしれません。
中森家にもいろいろと複雑な事情があるようです。
中森明菜さんはデビュー後の大人との出会いがことごとく最悪です。若い頃から大人の金儲けに利用され、心が疲れてしまったように見えます。2010年頃には、重度のうつ病を患っていたといわれています。
ここまで人間の汚い部分を見てしまえば、うつにもなりますよね…。芸能界で戦うには、中森さんは純粋すぎたのかもしれません。
貧乏な生い立ち/家族の為に歌手を目指した幼少期
歌が好きであったという面もあると思いますが、第一に歌手を目指した理由というのが家族のためだったという中森明菜さん。子供の頃から人を思いやられる優しい性質の持ち主だったようです。
そして、16歳(1981年)になった時に日本テレビのオーディション番組「スター誕生!」に出場しました。
実際に中森明菜さんが「スター誕生!」出演のために動き出したのは、1978年の中学生の頃でしたが、予選では8千人が応募をし、そのうちの10人しか番組に出演出来ない程の枠の中、中森明菜はなんと番組での合格まで獲得したのです。
その番組での予選は、一人5秒程度の歌唱チェック。たったこれだけで、中森明菜は歌手としての素質を認められたのです。
スター誕生!は、沢山のスターを輩出した番組です。当時、夢みてハガキを送る人は沢山いました。タレントになる一番分かりやすい道だったかもしれません。
今とは違い、まさにテレビの時代でしたから、ユーチューバーになって…等の方法は無いですものね。8000人の中の1人に選ばれた中森明菜さん、5秒の歌唱力チェックで見抜く方も凄いですが、認められる方も凄いですよね。
そんな明菜さんの行動を喜んだのが、かつて歌手を目指していたという母親の千恵子さん。「その後、明菜が応募したことを知って誰よりも喜んだのは家内でした」
歌手になれなかった母親からバトンを引き継ぎ、13歳の明菜は猛然とダッシュを始めたのである
お母さんが歌手を目指していたならば嬉しいですよね。母の叶えられなかった夢を娘が叶える。そのために中学生の時から頑張ってきた中森明菜さん。この話からすると、家族の仲の良さが良くわかります。
中森明菜さんは、番組出演前に行われる予選を3回目で晴れて通過、ついに本番(本選)の1981年8月2日を迎えます。歌は、「夢先案内人」(歌:山口百恵)で、番組最高点である392点(/500点)を叩き出しました。
結果、11社からのスカウトを受け、その翌年1982年に「スローモーション」にて歌手デビューを果たしています。
そして、ここから輝かしい芸能生活が始まっていくのかと思いきや…近藤真彦さん(&メリー喜多川)との一件諸々、残酷な末路が用意されていたのでした。