キャシー中島さんは昔、超美人だったことを知っていますか?
現在では、すっかりふくよかになられてハワイアンキルトの印象が強いですが、モデル時代は超絶美人でした。
昔の若い頃の画像や、波乱万丈の苦労話をまとめました。
目次
キャシー中島の若い頃・モデル時代【昔の写真】
キャシー中島さんは若い頃、1969年にレナウンCMをきっかけにデビューしました。なんと当時は17歳。ぴちぴちのモデルでした。
ハワイ・マウイ島出身ですが、本名は勝野八千代さんといいます。母親は日本人ですが、父親がアイルランド系アメリカ人でハーフです。
スカウトでモデル業界へ
キャシー中島さんをスタイリストの堀切ミロさんがスカウトしたことがきっかけでモデルの道へ進むことになりました。
当時、家計も苦しく家族を助けたいという思いもあって、モデルとしての活動を決意されたそうです。
デビューまで3ヶ月で20キロもの減量をして、モデルとしての活動を開始します。
上記はモデル時代の宣材写真(昭和46年)です。とってもお綺麗です。
モデルデビュー後、1972年10月の「ぎんざNOW!」でアシスタントに抜擢され、司会のせんだみつおさんとの掛け合いが評判となり、一躍有名人となりました。
キャシー中島の若い頃の経歴を追う
一般の家庭に生まれたキャシー中島さんが、モデルを経て現在のハワイアンキルトに行き着くまでには何があったのでしょうか。
若い頃の経歴を追いかけてみました。
昔抱いていた将来の夢は手芸屋さん
10代からモデルとして芸能界で活躍していたという過去からすれば、小さい頃からモデルやタレントになるのが夢だったのではないかと思う方も多いのではないでしょうか。
しかし、キャシー中島さんは子供の頃、モデルやタレントとは全くかけ離れた夢を抱いていたのです。
小学校4年生の時には、手芸クラブでスウェーデン刺繍にハマっていたそうです。卒業文集にも「将来の夢は手芸屋さん」と記載していました。
現在ハワイアンキルトにぞっこんのキャシー中島さんですが、その片鱗は既にこの頃から出てきていたのですね。
手芸が好きになった理由
キャシー中島さんは、米国人の父と日本人の母の間に生まれたハーフです。
5歳の頃に両親が離婚しており、母子家庭で育ったため、1人遊びをしている時間が圧倒的に長かったそうです。その頃から小さなものを切って張って集めたり、針で縫ったりして遊んでいました。
両親が離婚した後は、横浜の石川町で育ちましたが、ご近所にシャツを縫う内職をしている家があったり、材木屋さんがあったり、クリーニング屋さんまでありました。
手芸スキルを上げるにはもってこいの環境です。シャツの切れ端や木目の綺麗な材木の切れ端を貰って、遊びに使っていたとか。
手芸の才能は、幼少時代に身に着けたものだったのですね。
モデル・タレントを経て、一時芸能活動を休止。そして現在は一周まわってハワイアンキルトで大成功しています。
若い頃に本当に好きだったものがようやく開花したのですね。
ハーフが嫌で反抗期を迎えた
一般的な日本人の大人からすれば、ハーフというのは女性だったら美人だし、男性だったらカッコイイわけで、羨ましいと感じる人も多いかもしれません。
しかし、それが思春期時代となれば、当の本人は周囲と自分とのどうしようもない違いに悩まされる大きな原因になってしまうこともあります。
瞳の色も髪の色も違うので、何をしても目立って怒られてしまいます。
キャシー中島さんは昔、特に中学時代にこのことに悩まされていたようです。
現代ではより容姿には寛容になってきましたが、昔の人は少しでも周りとちがうと除け者にしたり、イジメの対象にしたり、逸脱した他人に厳しかったです。若い頃のキャシー中島さんは、そういった好奇の目に晒されることに傷ついていたのでしょう。
徐々に反抗心が生まれてしまい、母親にも反発するようになってしまいます。
母親は「それはあなたが思うだけで、(ハーフであることは)持って生まれたものなんだから、素晴らしいことなのよ」と伝えてくれたものの、納得できなかったキャシー中島さんは不良の道へ進みかけてしまいます。
学校へは通っていたものの、夜23~24時まで遊ぶような状態になっていました。
堀切ミロとの出会い
反抗期もあって、夜な夜な横浜に遊びに行っていたキャシー中島さんに目を止め、話しかけてきた人物がいました。それがスタイリストの堀切ミロさんでした。
キャシー中島さんは、堀切ミロさんに「あなたさあ、かわいいのに。もうちょっと痩せたらモデルで使いたいのね」と言われます。これがモデル業界へ入るきっかけ、そして芸能界への入り口でした。まさに運命の出会いです。
キャシー中島さんは「モデルになったら、お金いくらもらえるんですか?」と聞いたところ、「そうねえ、あなただったら月に3万から5万になるわ」(※当時の大卒の初任給が2~3万円の時代)との返答がされたそうです。
母子家庭で母親が大変な思いをして働いていることを知っていたキャシー中島さんは、家計を助けられたらいいなと思い、モデルの仕事をすることを決めました。
そこで、モデルになることを決意したキャシー中島さんは猛烈なダイエットを敢行します。今では考えられませんが、昔はかなり大変な思いをしていたんですね。
3ヶ月で20キロも落としており、少し心配になるレベルのダイエットの仕方です。
食べないで、下剤を飲む。そんなやり方をしていました。若い10代という昔の時代だからこそできた方法かもしれません。
痩せられた段階で、再び堀切ミロさんに会いにいき「どうですか」と聞いたそうです。そしたらOKが出て、モデルの仕事を振ってもらえるようになりました。
ボーカルグループ「カサノバ7」に参画
カサノヴァ7(セッテ)に所属し、音楽活動をしていた時期もあります。
イタリア人男性5人と日本人女性2人の7人組で、女性2人のうち1人は若き日のキャシー中島さんです。バックコーラスとソフトな演奏、イタリアの雰囲気を醸し出すポップな曲調が人気の歌謡曲でした。
セルフプロデュースが上手だったのと、明るい性格で一緒に仕事をする人たちにもどんどん覚えてもらい、キャシー中島さんはどんどん売れ出しました。
女優を目指したこともあったが断念
モデルからタレントへと活動の幅を広げたキャシー中島さんは、さらに女優へと進もうとしたことがありました。しかし、女優の道は断念しています。
その理由は「杉田かおる」さんからの「ねぇねぇ、お姉ちゃん演技下手ね。女優に向いてないんじゃない」という痛烈な一言だといわれています。
「ライオンのごきげんよう(2016年1月25日放送)」にて、女優転向を視野に入れてドラマ出演をしていた時に、当時子役だった杉田かおるさんからこのように言われたことで、女優転向は諦めたとのエピソードを語っていたことがあります。
これがきっかけで女優は諦めてしまいましたが、他人に言われてスッと辞めてしまうくらいなので、自分の中でも「向いてないかも…」等、思うところが元々あったのかもしれません。
キャシー中島は若い頃に出会ったキルトに惚れた
モデル時代の後半、仕事でロサンゼルスに行った際に、現在に続くパッチワーク・キルトに出会いました。昔のこの出会いが今のキャシー中島さんにつながっています。
夢中になってしまい、作り方の本や記事、縫い方も教わって帰国しました。
とはいえ、忙しすぎて手芸やキルトをする時間は当時はほぼなかったそう。
ハーフタレントとして人気爆発
「キャシーと仕事すると楽しいよね」と言われるようになり、モデル界も戦いが厳しくなってきたということもあいまって、20歳の時にタレントに転身しました。
そして、ついに大型番組の司会に抜擢。それが「ぎんざNOW!」でした。
しかし、この初代アシスタントという超おいしい話も3ヶ月で降板になります。
エメロンシャンプーのCMにオーディションで合格し、そっちの仕事がやりたいってことで辞めちゃったようです。1年かけて世界中で撮影するという仕事だったので、両立ができないためにやむを得ずということだったんですが、それでもなかなかの決断力です。
しかもこの撮影が終わって帰ってきたときには、番組プロデューサーに挨拶しにいって「また番組やりたいです」とか平気で言っちゃったそうです。笑
そういう天真爛漫さが、芸能界で生き延びられた大きな理由のひとつかもしれません。
キャシー中島は若い頃に勝野洋と再婚
キャシー中島さんは、19歳の頃にモデル仲間と1度結婚してすぐに離婚した過去があります。
本当に短い結婚生活だったこともあり、「同棲だけでよかったのに、なんで籍入れちゃったの?」とみんなに聞かれる始末だったとか。
そういった過去もあって、2回目の結婚は絶対に失敗したくないと思っていたキャシー中島さんは、長く一緒にいられる人を探すことにしたそうです。
そんなさ中、テレビで勝野洋さんを見かけて真面目な姿に一目惚れ。猛アタックをして、結婚することにしたのだとか。
勝野洋さんに一目惚れしたキャシー中島さんは行動を開始します。知り合いや友達に、「勝野洋、知らない?」と聞きまわり、勝野洋さんの行きつけのお店を発見します。
親友・清水クーコさんと一緒に張り込んで、ついに勝野洋さんと会うことになります。
以降、一緒に飲むようになって、家に誘われるように。「可愛い猫がいるから来ない?」とか言われて、勝野洋さんの家に行くまでの仲に発展しました。
さらに、勝野洋さんが、小野寺昭さんや石原裕次郎さんらと一緒にハワイに行くとの情報を得たキャシー中島さんは、即刻自分もハワイ行きのチケットを取ります。
その後、「偶然なんだけど、私もハワイに行くの」と勝野洋さんに連絡すると、「え?前から決まってたの?」と反応。「そうよ、ほんとにびっくりしちゃうよね」と返してハワイで合流したそうです。
結局、「"こんなに偶然が重なるなら、この女かな" と思って、結婚しようと決めた」と勝野洋さんは後に語っており、キャシー中島さんの戦略勝ちでした。その「偶然」は意図的に作られたものだったのです…!笑
12月4日に交際を開始し、婚約発表が翌年の1月11日だったので、爆速で結婚まで持ち込んだことが分かります。
キャシー中島さん曰く「あまり考える隙を与えるのもまずいと思った」とのことで、彼氏からプロポーズしてもらえないと嘆く現代女性は見習うべきマインドです。
「女はそのぐらいでいいんです、幸せになるためなら、たくらんでいい」ともコメントしており、戦略家なのに加えて起業家並みの行動力を見せたキャシー中島さんの逞しさが垣間見えた瞬間でした。
キャシー中島が「いいとも」で芸能界復帰
専業主婦期間を経て、芸能界にも少しずつ復帰していきました。40年間でキルトの書籍はなんと60冊も出版しており、アウトプットの物量は圧倒的です。
笑っていいとも「テレフォンショッキング」で当初は勝野洋さんにオファーが来たのですが、スケジュールの都合がつきませんでした。そこで、だったらキャシー中島さんはどうなの?という話になって、急遽出演することになりました。
自分の宣伝もしてOKとのことだったので、そこでアメリカンパッチワークのキルトを紹介したところ、あっという間にキルトでの仕事が舞い込んでくるようになりました。
小堺一機さんの「ライオンのいただきます」にレギュラーで呼ばれるようになり、昼の番組なので16時には帰れることからオファーを承諾。
当時は幼稚園生の長男の子育てもあったため、本人曰く「パートタイマータレント」として活動していたとか。
復帰の話が来てもしっかり自分の幸せとのバランスを取っている様子が伺えます。生き方が上手だなと思わされます。
キャシー中島さんの昔の経歴から、現在の成功に至るまでの歴史をまとめてみました。
きちんと自分で決断し、行動してきた大人はカッコいいです!