Kカンパニーに所属するバレエダンサー・宮尾俊太郎さんの父親は、なんと音楽教師だったのだとか。バレエの家系ではなかったことに驚きですね。
14歳から始めたバレエの道で生きていくと決めた宮尾俊太郎さんに、父親は厳しい教育方針で接していたそうです。宮尾俊太郎さんの父親について、詳しく調べてみました。
目次
宮尾俊太郎の父親は高校の音楽教師でバイオリンの先生
宮尾俊太郎さんの父親は、高校の音楽教師でバイオリンの先生をしていたそうです。
幼少期には自宅で、五嶋みどりさん(日本生まれでアメリカで活躍しているトップクラスのバイオリニスト)のバイオリンの曲をたくさん聞かされて育ったといわれています。
父親は、自身がバイオリンの先生をしていたこともあり、息子の宮尾俊太郎さんにもバイオリニストになって欲しかったのだとか。
宮尾俊太郎の父親の出身は北海道
宮尾俊太郎さんの父親の出身は北海道です。宮尾俊太郎さんも、幼少期~学生時代を北海道で過ごしています。
宮尾俊太郎さんは以前、番組の企画で実家を取材されたことがあります。
画像は残っていませんが、実家の自宅にはグランドピアノが置かれていて、まさに芸術一家のご家庭といった様相だったそうです。
宮尾俊太郎の父親は既に亡くなっている
宮尾俊太郎さんの父親は、宮尾俊太郎さんが活躍して世の中に出始めた頃から体調を崩してしまい、2012年3月に他界されています。
息子のバレエダンサーとしての実力が世の中に認められたタイミングで、父親はまるで役目を果たし終えたかのように、亡くなってしまいました。
もっと息子の活躍ぶりを見たかったと思いますし、きっと空から見守ってくれているでしょう。
宮尾俊太郎の父親は裕福だった?
バレエは習い事の中でも、非常にお金のかかるものです。
年齢にもよりますが、週1回のレッスンで月謝が7000~10000円が相場です。週2~5とレッスンの回数を増やせば、それだけ月謝は倍額になっていきます。
14歳からバレエを始めて、3年後にはスカウトされてしまうレベルということは、猛烈な頻度で通っていた可能性が考えられます。
週5日で通っていれば、月謝だけで月5万円くらいはかかっていたのではないでしょうか。
そして、バレエを続ける上でお金が掛かるのは発表会です。
発表会での出費に比べれば月謝は安いものです。1回の発表会で安くて10~20万円、役柄によっては50~100万円かかることもあります。
名門のバレエ教室であるほど、発表会のためにきちんとした舞台を作る為、会場費用やスタッフの人件費(照明・音声・撮影・美術)、機材の費用や運搬料金、メイクや衣装代、演出プランニング・舞台監督など、たくさんの費用がかかるそうです。
噂によると、一回のバレエ発表会で新車が数台買える程の金額が動いているとか。
そんなバレエを習い続けていたことからも、父親は裕福で経済的に余裕のある方だったのだろうと推測できます。
宮尾俊太郎の父親は息子が音楽の道へ進むことを望んでいた?
宮尾俊太郎さんの父親は、元々は息子にもバイオリンの道に進んで欲しいと思っていたそうです。
しかし、宮尾俊太郎さんは14歳でバレエを習い始めると、その3年後には才能を見込まれてフランス留学(カンヌ・ロゼラハイタワー)にスカウトされています。
バレエダンサーとしてはかなり遅いスタートにも関わらず、3年間であっという間にトップクラスに昇り詰めていることからも、よっぽどの才能だったのでしょう。
帰国後すぐにKカンパニーに入団して、現在の活躍に至ります。
ここまで圧倒的なバレエの才能を見せつけられてしまっては、父親は応援する他ありませんよね。最終的には、父親も宮尾俊太郎さんのバレエへの道を応援してくれていたそうですよ!
ちなみに、宮尾俊太郎さんにはバレエの才能だけではなく、油絵の才能もあります。父親が音楽をしていたこともあり、芸術系に優れた遺伝子をきっと受け継いでいるのでしょうね。
バレエのみならず、油絵まで書けるとは恐ろしいです。バレエダンサーを目指す前は絵描きになりたくて、美術部に所属していたそうです。
上記の絵はバラエティ番組「プレバト」で披露された絵で、番組内で先生から1位の評価を獲得していました。実力も確かなものだったのですね。
宮尾俊太郎の父親が宮尾すすむとの噂はデマ
一部で宮尾俊太郎さんの父親がタレントの「宮尾すすむ」さんなのではないかとの噂があるようです。
「宮尾」という苗字が同じであることと、出身が北海道で共通であることからこのような噂が流れるようになってしまったようですが、お2人は一切関係がありませんので噂はデマです。
また、実は「宮尾すすむ」さんは芸名であり、本名は「山口進(やまぐちすすむ)」さんといいます。本名は「宮尾」ではありません。
宮尾俊太郎の父親の厳しい教育方針「学生でないなら働け」
バレエと音楽はジャンルは確かに違いますが、いずれも才能が幅を利かせている厳しい世界であり、活躍できる人物がほんの一握りであることは共通しています。
音楽の世界で生きてきて、芸術で生きることの厳しさを知る父親は、息子の宮尾俊太郎さんがプロバレエダンサーになりたいと語った際、「憧れや夢見るだけでできることではない」「バレエの道を進むなら、自分で切り開け」と厳しく伝え、一切援助をしなかったそうです。
通常、バレエダンサーとして世界で活躍するには、国際的なバレエのコンクールに出場して奨学金を獲得して海外留学をする…という流れでしたが、バレエを始めてたった3年しか経っていない宮尾俊太郎さんにはそういったチャンスはありませんでした。
そんな中、日本で行われたパリのバレエ団の講習会にたまたま参加していたことがきっかけで、その講師だった人物がフランスのバレエ学校の校長になり、「よかったら来ない?」と声をかけてもらったことで海外への道が開かれました。
ご両親も「海外に行った方が固定給を得られるし、就職先を海外で見つけられたらいいね」と前向きに送り出してくれたそう。
パリ留学をしたことで自信をつけた宮尾俊太郎さんでしたが、その後海外でのバレエ団就職に失敗し、上手くいきませんでした。途方に暮れた宮尾俊太郎さんは、失意の中で日本に帰国します。
宮尾俊太郎さんは、このタイミングでバレエから一度離れてしまいました。くすぶった状態の宮尾俊太郎さんに対して、父親は「学生でないなら働け」と伝えたそうです。
居酒屋やコンビニ弁当の製造工場でアルバイトをする日々に焦燥感を募らせる毎日だったそうですが、この時期に運命の出会いを果たします。
札幌のとあるホテルにある和食店でアルバイトをしていたところ、お店の方から「熊川哲也さんという人が昨日ここで打ち上げをやってたよ」という話を聞きます。
熊川哲也さんは北海道旭川市出身のバレエダンサーで、イギリスのバレエ学校に留学した後、1989年にローザンヌ国際バレエコンクールで日本人初の金賞を受賞したバレエ界のトップクラスの人物です。
英国ロイヤル・バレエ団の元プリンシパル(バレエ団の顔になるトップスターのこと。首席。)にまで登り詰めました。
退団後は、日本でKバレエカンパニーを設立して、自身のバレエ団を運営しながら、芸術監督・振付家・演出家として活躍しています。
元々、宮尾俊太郎さんは熊川哲也さんがバレエをする姿に憧れてバレエを始めており、お店の方の話を聞いて、ふと自分の原点を思い出したのかもしれません。
「何してんの、オレ。バレエをやりたかったんじゃないの?」と思い、この出来事がきっかけでバレエに戻る決心をしたそうです。
憧れの熊川哲也さんと知らず知らずの内に急接近して「昨日ここで飲んでた」なんて言われてしまうと、憧れの人から急に「実在するんだ…」と現実味を帯びてきます。
そこから宮尾俊太郎さんは、熊川哲也さんにバレエを教えた久富淑子(ひさとみよしこ)先生が、札幌で「久富淑子バレエ研究所」をやっていることを探し出し、入門。
久富先生の下で学びながら、機を伺って熊川哲也さんに繋いでもらったそうです。憧れの人に本気で近づこうと思えばできるものなのですね、行動力が尋常ではありません。
ついに熊川哲也さんと対面した宮尾俊太郎さんは、「お前、札幌で何をしたいんだ? 踊りたくないの? だったら東京へ来ないか。東京に来て、苦い水を飲んでみろよ」と言われて、そのままKカンパニーバレエ団に入団し、現在の活躍に至ります。
入団3年目からは主役に抜擢され、厳しいレッスンに必死についていきました。そして入団から11年、2015年12月にKバレエ団のプリンシパルに昇格しました。
宮尾俊太郎さんがここまでバレエ界で昇り詰めることが出来たのも、父親の厳しい教育方針があったからこそだと思います。
父親に「学生でないなら働け」と言われて、あの和食店でアルバイトをしていなかったら、熊川哲也さんの話を聞くこともなく、覚醒イベントがないまま腐っていたかもしれません。まさに運命でした。
父親は息子に厳しく接しながらも、それは大切に想うからこそで、本心では応援していたはずです。
傷心状態の中で「学生でないなら働け」という言葉は一見、厳しいように思われますが、父親としては、本当はバレエで夢を叶えてくれたら一番嬉しいけども、もしその夢がダメになっても社会人としてダメになって欲しくはないから、せめて働いておけと親心からアドバイスしたのかもしれませんね。
様々な運が重なり、宮尾俊太郎さんはバレエ業界で認められるようになりました。
宮尾俊太郎さんは23歳の頃に、「ドン・キホーテ」の舞台で主演を勝ち取り、父親はその舞台を観に来てくれたそうです。
父親はこの頃から既に体調があまり芳しくなかったようですが、息子の晴れ舞台とあって、きっと楽しみにしていたのだろうと思います。
父親のストイックな考え方は、宮尾俊太郎さんにもしっかりと受け継がれているようです。
バレエダンサーとしてやっていくためには、日々の食生活からシビアに体に気をつかう必要があります。
宮尾俊太郎さんは現在まで未婚ですが、どの女性と付き合っても、手料理がボリューミーだったり脂っこい食事だったりして、うんざりしてしまうことがしばしばだそう。
「スタイルや体調に非常に気をつかうバレエダンサーと交際しているのに、こんな配慮もできないなんて…」と失望してしまうのだとか…。
また好きな女性のタイプについても「人として日々向上しようと生きている人」「僕にとってどこか尊敬できる部分がある方と一緒にいると自分も成長できる」と語っており、父親由来のストイックな生き方がにじみ出ている感じがします。
方向は違っていても、自分と同じように何かに努力している姿勢が見えないと尊敬できないというのは、厳しい父親に育てられてきた宮尾俊太郎さんにとっては、当然のことなのかもしれません。
宮尾俊太郎の父親はバイク好きだった
宮尾俊太郎さんはバイク好きなことでも有名ですが、実は父親もバイクが大好きだったとか。
宮尾俊太郎さんが熊川哲也さんの下でバレエをし始めた頃は余裕がなかったでしょうから、バイクに時間やお金を費やす時間はなかったかもしれません。
おそらく実力が認められてきて、時間やお金に余裕が出て来てからバイクにのめり込み始めたのではないでしょうか。
父親が亡くなってしまったのは2012年、宮尾俊太郎さんが28歳の頃だったので、一緒に趣味のバイクを楽しむ時間はあまりなかったかもしれません。
もし現在までご存命であれば、ツーリングをしたり、息子と2人で並んでバイクを楽しんでいたかもしれないので、少しだけ残念ですね。