国民的な音楽アーティスト、椎名林檎さんにも子供時代が当然ありました。一体どんな幼少期を過ごしたらあんな大人になるのかと、気になる人も多いですよね。
なんせあの世界観は唯一無二のものですし、どうしたらそんな感性を持った人間になれるのか不思議だったりするからです。とてもミステリアスですよね。
幼少期にはなんと先天性の病気を患っていたこともあり、そういった過酷な経験が現在の世界観の形成に関わっているのは当然でしょうね。
さらに、なんで「林檎」なのかってのも子供時代に由来しているんです。椎名林檎さんの秘密をドカっとまとめてお届けします。
目次
椎名林檎の子供時代はこんなだった!先天性の難病を経験し、緊急手術…!
椎名林檎さんの子供時代にあった大きな出来事として、先天性の病気を持っていたことが挙げられます。病名は「先天性食道閉鎖症」です。
食道が途中で途切れていてミルクが飲めないという症状で、赤ちゃんに起こる病気です。
栄養が吸収出来ませんから、それ自体はかなり危険な病気なのですが、発生確率は3000~5000人に1人くらいなので、そんなに低いというわけでもありません。
食道閉鎖の治療は、小児外科を代表する手術の一つです。
ただ年齢によるところがあって、椎名林檎さんの場合は結構大変だったらしく、新宿区の慶応大学病院にて、緊急手術を丸2日間も行ったそうです。
後遺症も遺ってしまって、ピアノやバレエを継続できない原因になってしまったという話もあります。
とはいえ、そんなことは微塵も感じないようなステージでのパフォーマンスは圧巻ですよね。さすがプロ。
「林檎」の由来も子供時代にあった…!?
「椎名林檎」というのは芸名です。椎名は本名なのですが、実は「林檎」は幼少期のあだ名に由来しているんです。
子供の頃に恥ずかしがり屋すぎて、顔が真っ赤になることが多く、友達から「林檎!」と呼ばれていたから
なんとかわいい理由。恥ずかしくて赤くなっちゃうから「林檎」と呼ばれていたんですね。それをそのまま芸名にしたというわけでした。
幼少期はガラガラ声にコンプレックスがあった
胸を突き刺すようなハスキーボイスがトレードマークの椎名林檎だが、じつは彼女は子供の頃から自分の声が好きではなかったそうだ。
なんでも、幼かった頃の椎名林檎は、「声が悪いから、声に気を遣うのは絶対にやめた方がいい」と、母親からアドバイスされるほどにガラガラした声だったとのこと。
自身の声によって、周りの雰囲気が変わってしまうことを幼いながらに恐れた椎名林檎は、あまり喋らない子どもだったという。
今の林檎さんに比べて、大人しい幼少期を過ごしていたギャップに驚きます。
将来の超有名シンガーソングライターにも関わらず、自分の声が好きではないというコンプレックスを抱えていたんですね。
素敵な声も本人にとっては、辛いものだったわけです。捉え方で人生って変わるもんですよね。後にコンプレックスを武器にしちゃうなんて、やっぱり凄い人だなと感じます。
音楽との出会いは4歳のとき
林檎:ぜんぜんキャッチーじゃないんですけどね、ドビュッシーのピアノ曲とかですね。 幼少の頃はピアノ曲以外はあんまり好きじゃなくて、歌モノとかにはほとん興味がなかったな。
ーそのへんはやっぱり、ピアノとかバレエを習っていた影響ですかね?
林檎:そうなんでしょうね。 交響曲とかでもバレエ音楽とかが大好きで。 その頃よく聴いてたのは、森下洋子さんというバレリーナの方が編集したバレエのレッスン用のレコードがあるんですけど、ショパンのワルツとかがいっぱい入っていて凄くいいんですよ。
そもそもの音楽との出会いは4歳頃のピアノが最初でした。このあたりは親御さんの手柄が大きいでしょうね。
子供に適性があるものを見つけてあげて、しかもそれをやらせてあげられる経済力がないと、こういった才能は埋もれてしまいます。
環境を整えることっていうのは、子供の人生を大きく左右することなんだと感じますよね。
椎名林檎は学生時代から音楽に目覚めていた!中学時代と高校時代の音楽活動とバイト生活【卒アル写真】
椎名林檎さんはかなりミステリアスな印象のある女性で、普段はしっかりばっちりとしかも若干奇抜なメイクをキメていたりするので、椎名林檎さんの素顔とリアルな顔が知りたいですよね。
そんなときに見たくなるのが「卒アル写真」です。椎名林檎さんの学生時代の素顔は、現在と全然イメージが違いました。本名「椎名裕美子」さんってのも出ちゃってますね。
金髪でチャラついている感じなのかと思いきや、真面目そうな印象です。田舎っぽさすらあります(笑)
音楽の土台ともなるのが、学生時代です。椎名林檎さんは、どんな中学時代・高校時代を過ごしたのでしょうか。
父親が外資系石油会社のサラリーマンだったため、転勤が色々ありました。
2歳から10歳までの小学生時代は静岡県清水市で過ごし、その後、福岡県福岡市早良区に引っ越しました。父親が福岡支店に転勤になったことがその理由です。
福岡市立百道中学校での中学時代
そのまま中学時代は福岡で過ごしています。出身中学校は福岡市立百道中学校です。
この中学校はお金持ちが集まる地域にある市立中学校でして、転勤族ということも相まって大企業サラリーマンの、稼いでる裕福な家庭だったのだろうと考えられます。
音楽に目覚めたのは早い時期です。既に幼少期にピアノとクラシックバレエをやっていたので、音楽的なセンスが育まれていたのでしょう。
中学時代から、福岡の西新にある音楽教室へ通っていました。きちんと音楽の基礎も学んでいたんですね。
小学校時代は「風の谷のナウシカ」のサントラやナベサダ(渡辺貞夫)を聴きまくっていたそうですが、中学校ではヒップホップに傾倒していました。
小学生でナベサダですか? 渋すぎ(笑)。
林檎:(笑)。 『RENDEZVOUS』というアルバムを凄く聴いてて。何か、ナベサダさんには“土曜の夕方”っていうイメージがあるんですよ。
土曜日は父親が料理する日で、BGMはナベサダ。 あとはビリー・ジョエルとかかな。
実際にバンドを組んだのは中学時代で、友人と組みました(後に解散)学内のみならず、学外にもバンドを組みまくっていたらしいですww 学園祭にも出演していました。
根っからの音楽好きだったんですね。合計20以上の楽器パートを掛け持って音楽活動をしていたそうです。すでに天才。
兄の影響で洋楽も聴き始めた
林檎:中学生はモータウン。ソウル・トレイン少女になっちゃうんですよね。フェイバリットはマーヴィン・ゲイ。
ーまた、突然ですね〜。それは誰かの影響で?
林檎:兄の影響ですね、憧れというか…。もう、日本人の音楽を急に全然聴かなくなるんですよ。それまでは日本人のも大好きだったんですけど、一気にかぶれちゃった感じですよね。
中学時代には、さらに音楽の幅が広がりました。兄・椎名純平さんの影響だったようですね。
福岡県立筑前高校での高校時代!軽音楽部に所属して楽曲制作を既に開始
高校は中退しているんですが、福岡県立筑前高校に通っていました。なんと偏差値は60あるので、結構頭の良い人なんですね。
高校時代はマライアキャリーの曲を演奏していたそうです。
高校1年生のときには、ホリプロスカウトキャラバンに出場したんですが、林檎さんはアイドルのためのオーディションだという認識が無かったそうですw
高校2年生(1995)のときに「Marvelous Marble」のボーカル兼ギタリストとして「第9回 TEEN'S MUSIC FESTIVAL」に出場、地区大会で1位を取りましたが、結果は惜しくも、奨励賞の受賞にとどまりました。グランプリは逃しちゃったんですが、驚くべきことに、この年のグランプリは「aiko」さんです。
やっぱりこういう賞モノって何だかんだで、才能ある人がきちんと賞を取れるようになってるんだなと改めて思いますよね。
椎名林檎さんは、このときのaikoさんとの出会いを「一生忘れません」と語っています。よっぽど衝撃的な出会いだったんでしょうね。
学校は、高校2年生の3学期が終わったタイミングで中退しました。音楽にのめり込んだ結果の中退でした。
ちなみに親の反対を押し切って…的な展開は特にないので、ご両親は椎名林檎さんの才能を完全に応援していたのでしょうね。良い親に恵まれていたからこそ誕生したスターだったんですね。
高校中退後の音楽活動
翌年(1996)、再び大会に出場した椎名さんは関係者にソロでやることを薦められ、椎名林檎名義で披露したのが、あの「ここでキスして。」です。
有名曲が既にこの時期に誕生していたと考えるとアツイですよね。大会では優秀賞を受賞しました。再び出場していたaikoと同時に、優秀賞を受賞したのでした。
その後すぐにデビューが決まるんですが、スタッフと衝突してイギリスに2ヶ月間ホームステイをして自分を見つめ直したようです。
このことからも、ただ単にデビューデビューをしたいという気持ちよりも、自分のやりたい音楽や曲げたくない心情みたいなものがしっかりとあったことがわかります
高校時代はアニメが好きだった?
椎名林檎さんは、アニメ『昭和元禄落語心中』主題歌の「薄ら氷心中」(歌:林原めぐみ)をプロデュースしたことがあります。
「その七色の声に触れられるなど、作家として夢のまた夢」
「高校生時分の椎名林檎に知らせてやりたい」
とコメントしていました。高校時代にはアニメが好きだったことが伺えますよね。
学生時代のアルバイトはピザ屋と警備員
中学時代(?)と高校時代、そして高校中退後にはアルバイトをしつつデモテープを送る日々を過ごしていました。
実際には、高校を中退したらすぐにレーベルからお声がかかったので、やはり才能があったことがわかります。
ピザ屋と警備員をやっていました。「ピザ屋の彼女になってみたい」という歌詞が丸の内サディスティックに登場しますけれども、本当に過去にピザ屋でバイトしていたとは…!
上京後のアルバイトは渋谷のレコード屋
彼女の楽曲「歌舞伎町の女王」は、その頃にSMクラブのスカウトマンから「女王様をやらないか?」と声を掛けられたことを機に作られた楽曲だそうだ。
売れるまでのミュージシャンはアルバイトに励むことになりますけど、椎名林檎さんも例に漏れずアルバイトを多々やっていました。
ピザ屋だったり女王様だったり…青年時代の経験が楽曲の世界観に大きく反映されています。ミュージシャンの子供時代には、その世界観の原点が詰まっているってことですね。